たみちょさんの場合(発症から現在まで)
<脊髄梗塞・54歳・2017.4月末発症(49歳)・群馬県高崎市在住>

最初に異変を感じたのは入院する前日、仕事が休みだったのでドライブしていた時、右か左か忘れましたが、肩甲骨辺りが痛くて、その時は気になりませんでした。

次の日、犬の散歩をして仕事へ行く為、車を運転していたら昨日とは逆の肩甲骨が痛くなりました。なんとか仕事先へ着いたのですが、とても仕事をする感じではありませんでした。
上司に話をすると、病院に連れて行ってくれ、そのまま入院になりました。

最初は普通に歩けましたが、二日後くらいにトイレで急に立てなくなり、看護師さんにベットまでお願いしました。しばらくしたら看護師さんが、前橋の日赤病院に受け入れ態勢ができたから救急車で搬送しますと言われました。

そして、看護師さんが付き添い日赤病院へ。ICUに10日位いました。
薬はプレドニンを飲んでいました。

私の場合、最初は左足に麻痺があり、また両手にも麻痺があり手が動かせないので、良くテレビのクイズで回答者が押す大きなスイッチみたいなものを手の下に置いて、それがナースコールでした。

握力が2とか3しかなくて赤ちゃん並みと言われました。神経内科の先生には、この病気は手術できないからリハビリで頑張るしかないと言われました。
背中から髄液を採る時は沢山の研修生?に囲まれましたが、痛みは感じませんでした。

ICUに居る時から手と足のリハビリが始まり、全然動けなかったので二人がかりで車椅子に乗せてもらいました。
左手はグーの状態で食事も病院から借りた特別なスプーンを使っていました。
手のこわばりと冷たさは今も変わりません。

左足は全く動かせず、車椅子からボードを使っての移乗もなかなかできませんでした。
その時よくお尻に木みたいに根っこがはえたみたい!と説明していました。

ICUから一般病棟に移り、私は5人部屋の通路側になりました。
同室には30代の人、同年代?の人、70歳位の人、100歳のお婆ちゃんがいました。

私のベッドの前がトイレだったのですが私はバルーンなので行く必要はなく、100歳のお婆ちゃんが曲がった腰で、点滴台を押しながらトイレに行っていました。

私は身動きが取れず、5人の中では一番重症で、最初は悲しくて泣いていましたが、途中から目標ができて、リハビリ時間以外も車椅子に乗せてもらい、夕方まで6階を自走で右足と腕の力で何度も往復しました。

同室の方とも仲良くなり、食べ物の話で盛り上がったり、上毛かるたを「あ」から言ったり、看護師さんにこの部屋は楽しそうだね!と言われていました。
でも大部屋の悩みは70歳位の人のイビキが凄くて寝不足になりました。

1ヶ月くらい日赤病院にいて、そのあと地元の病院に転院しました。

地元の病院に転院する時、介護タクシーだと金額がかかると兄が言うので、家の車で後部座席に乗るのを手伝ってもらってM病院に行きました。

自宅から歩いて5分くらいの場所で、入院病棟と外来病棟が道を挟んで建っています。入院病棟は昭和っていう感じでした。

1日手のリハビリを1時間、足のリハビリを1時間、退院するまでの3ヶ月頑張りました。まずは平行棒で立つ練習をしました。最初は立てなくてベットの上で暇な時間腰上げの練習をしました。

最初リハビリ室に行くため車椅子に移るのも起き上がれないし、介助してもらい移りました。病衣をレンタルしていたのですが、長袖しかなくて腕まくりしていても汗をかき、腕に汗もができ、上だけ半袖シャツを買って来てもらい途中から替えました。

建物が古いからか1階の天井が低くて、移動もリハビリ室に行くまでに坂があったりしました。トイレには2ヶ月目位から車椅子で行けるようになりましたが、トイレの入り口が車椅子ギリギリ通れる感じで、Uターンも狭くてできず、バックでギリギリの狭い所を廊下まで出るしかありませんでした。

何回か入退院をしたので、一人で上手にトイレまで行けるようになりましたが、高齢者は絶対無理だと思いました。入浴も動ける人以外は厳しいです。私は病気になる前は髪の毛が長くて、退院してから短くしましたが、入院中はカットできないので三つ編みにして、時間がある時髪の毛だけ洗ってもらいました。

病院は高齢者が多くて認知症の人もいて、夜ナースコールの音で眠れなかったりしました。他の患者さんに「あんだどこが悪いんだい?見た目なんともないけど。」と言われました。

病気で悪いから入院してるのに、この人車椅子が見えないのかな?と見た目で判断されると悲しくなりました。私だって好きで病気になった訳じゃない!
あと、気休めで言ってくれるのか?言われて嫌だったのが、若いからすぐ直るよ!という言葉。

高齢者から比べれば親子ほどの年齢ですが、病気に若いから良くなるは関係ないと思います。若くてもガンで亡くなる人、事故とか色々なケースがあります。
病気をしてみて初めて、病気の辛さが分かると思う。病気してない人には分からない気持ちがあると私は思います。

 

入院して2ヶ月半過ぎ位から自力で排泄できるようになりました。入院中は毎日排尿、排便の回数を看護師さんが効いてくるので、同室の人と排泄の悩みを良くしました。

発病してもうすぐ5年目を迎えますが、家で昼間トイレに行くときは手すりにつかまりながら、杖で左足を引きずり焦らずゆっくり歩いて行きます。

夜は危ないのでベッドの横に置いてあるポータブルトイレを使います。
私の場合、2年くらい前から下痢と血便が出て、大腸内視鏡の結果、潰瘍性大腸炎だと診断されました。脊髄梗塞だけでも十分大変ですが、潰瘍性大腸炎も難病指定の厄介な病気です。

粗相することはめったにないですが、スイスイ動けないので安心の為リハパンと尿取りパッドをずっと履いています。

両親はもう他界して、一人暮らしの為、まともに動けなくなって不安でした。
車の運転もできないので手放し、外出は誰かに頼まないと出かけられないので引きこもり状態です。

週2回、送迎で通所リハビリに行っています。シャワー浴とお昼ご飯、リハビリ、リクレーションをしておやつを食べて帰宅します。帰ってすぐに洗濯をして、次回用の薬の用意をしてから休憩を取るようにしています。

食事は手のこわばりがあり以前のようには出来ないけれど、椅子に座って材料を切ったり、少しの間立って料理を作り、慌てずに自分のペースでやるようにしています。

退院してから、You Tubeで好きな柴犬の動画を見て癒されています。
自分が興味のあるものは、気になって色々調べる性格なので、不安になることもありますが、病気してから出来ない事は仕方ないと、諦めるようになりました。

それでも、M病院の先生、看護師さん、訪問看護師さん、訪問リハビリ、週2回のヘルパーさん、移動支援で週1の買い物、M病院までの通院介助と沢山の方に助けて頂いています。

一人でできない事がありますが、毎日無理しないで、やれる事は自力でやるようにしていきます。
【2022.4.6時点のお話】

高崎アリーナ公演に行ってきました!2022.6.25

病気して車イス生活になり、ライブに参加するのは諦めていました。20代から病気するまで、色々なライブ会場に行きました。

今回私の地元高崎でBz が3日間ライブをすると聞き、20年以上つきあいのある友達がチケットを取れたら一緒に付き添ってくれると言ってくれたので、申込をして6月16日と19日のチケットが取れました。

車イスで見るため、イベンターに電話をして車イス席を予約しました。目標が出来て、私のやる気スイッチが入りリハビリもいつも以上に頑張りました❗

高崎アリーナに駐車場はありますが、当日は関係者以外だめなので、私を入口近くで降ろしてもらい、友達は別に駐車場を探して合流。

ツアートラックと記念写真をとり、グッズ売り場へ。
でも、階段があり、私には無理だったので友達に
欲しいものをお願いして買って来てもらいました。途中、トイレに行きたくなりスタッフらしき人に多目的トイレを聞いたら、会場内と駅の方に行かないと無いと言われて仕方なくがまんしていて、別のスタッフに話をしたらスタッフ用のトイレを案内してくれて助かりました。

開場は、車イス専用の入口から名前を言って、身分証、ワクチン接種2回の証明、デジタルチケットを見せて案内されました。車イス席は、スタンドにあり同伴は、後ろにイスをおき一緒に見ます。車イスの方は2日間とも5人くらいいたと思います。コロナの感染予防のため、開演中もずっとマスク着用、声だしNG 、応援は手拍子のみでした。

友達の友達(何回かあったことあり、挨拶する程度)が私が車イス席で参加ということで、挨拶に来てくれました。マスク越しで数年ぶりでしたが変わってない。私の体調は、いつも血圧が高いのに、逆に低くなり、起立性低血圧があるため逆に低くなると心配でしたが、そこは、楽しみにしていたこの公演、行かない選択肢はなかったです。
でも、始まったら昔の私に戻り、車イスで立てませんが、(声は出せませんが)稲葉さんをずっと目で追って、久しぶりに楽しい2日間でした。

地元だからかも知れませんが、またチャンスがあればBz のライブに参加したいと思えました!

【玉置さん、高崎芸術劇場】2022.10.22投稿

病気をする前は、玉置浩二さんの追っかけをしていましたが、一人で出かけるのが出来なくなり、ずっと入っていたファンクラブもチケットをとって会場に行けないので、やめましたが私の玉置さんへの想いはどんな病気にも負けません❗

今回は、私の地元高崎で、友達がコロナ落ち着いたら大阪から会いに行くねと約束をしていました。大阪の友達は私と同じ年、何回かコンサート会場で会いましたが、15年ぶりの再会でした。夫婦でファン同士、奥さんは初めて会いました。東京の友達は、私が最初の入院中に東京国際フォーラム行った時に、東京駅まで迎えに来てもらったので、私の車イス姿は見ています。

今回は、4人で参加するので車イス席ではなくとれた自分の席まで行ける所まで車イスで行き、途中から杖で席まで移動をすると決めてずっとリハビリに階段の登り降りを加えてもらい頑張っていました。

9月6日朝、急に体調悪くて訪問看護さんに来てもらいました。その後熱が38℃出てしまい、電話して相談したら動けないなら自分で救急車呼んで❗と言われて119かけました。

かかりつけのM病院に断られ、仕方なく市内のH病院も×、K病院も×で、前橋のR病院が受け入れてくれて搬送されすぐにPCR 検査をして陰性でした。他の検査をして発熱の原因が尿路感染症とわかり1週間入院をしました。

入院中も高崎公演のことを目標にリハビリに力を入れました。
13日に退院しましたが、入院中から潰
瘍性大腸炎が悪化してしまい、ずっとお腹をさすっていました。退院には、通院介助の人に前橋のR病院まで迎えに来てもらいました。退院しても体調がすぐれず5日後にかかりつけ医に相談してM病院に再入院。

何度も入院してるので、知っている看護師さんたちがいて、私はまだ若いと言われるけど常連さん扱いです。1年ぶりの入院病棟、コロナ対策もされて変わった所もあったけど、あいかわらずの昭和感

10月5日には、芸術劇場に行くので入院生活も気合いで頑張りました。
9月29日に退院して自宅に戻りましたが、家に戻るとひと
りだと頼れるものがなく体調もはっきりいってまだまだでした。それでも大好きな玉置浩二さんが私の地元に来てるのに行けないのは、後悔するので当日は、ギリギリまでベッドで休んでいて、4時すぎにタクシーを呼び芸術劇場にむかいました。東京の友達Eさんに会い車イスを押してもらい会場で大阪のNさん夫妻を待ち合流。

イベンターには車イスのこと、席まで杖で移動することは連絡済みだったので、5列目の自分の席まで杖で移動しました。運よく端だったのでなんとか大丈夫でした。途中盛り上がる曲で周りが立ったので、1曲は前のイスにつかまりながら我慢して立ちましたが、無理はできないので仕方なく座り。人のすきまから見ました。

終演後、記念写真を撮り(奥さんがとってくれたから映らず)、食事会をしょうと居酒屋を予約していたらしいのですが、久しぶりに会えて私も話をいっぱいしたかったのですが、謝って駅前でタクシーに乗り、家に戻りました。
初めて会った大阪と東京の友達なのに、間に入る私が帰るのは申し訳なかったと思いました。でも、体調の悪い中、無事に参加でき、夢のような時間でした。

今現在は、入院前の体調に戻り、それでも日々大変ですが、私にとって一番きく薬(玉置浩二さん)に会えた嬉しさでパワーをいただきました。遠くから来てくれた友達にも感謝です❗また、いつか一緒に参加できるようにリハビリを頑張ろうと思いました‼

4月13日高崎芸術劇場】2023.4.15投稿

去年の10月に高崎芸術劇場行って、
まさかこんなに早く玉置さんが地元高崎に来てくれるなんて感激です。

前回で会場の感じはつかめたので、今回は一人でも参加しょう!と思いました。

東京の友達も高崎に来てくれるというので、有り難く今回は2人で参加になりました。私の家まで車で迎えに来てくれると言ってくれたので、芸術劇場に思いやり駐車場の予約の電話をしました。行く公演と車イス♿で行くこと、友達の車のナンバーを伝え、当日は専用の駐車場に赤いコーンに車のナンバー書いてある所に車を停めて下さいと説明を受けました。

イベンターにも、車イス♿で会場に行くこと、通路までは車イスで自分の席まで杖での移動するということを連絡しました。
去年は、退院後で体調も不調と友達やまわりに心配をかけたので、リハビリや体調を自分なりに整えていかなくてはと、目標をたてて過ごしました。

リハビリは、杖での移動と階段の練習や横移動をして、大丈夫とお墨付きをいただきました。
家まで迎えに来てくれるEさんに、リクエストしてくれたら何か料理しますよ❗と話をして、酢豚を作ることになった。材料の用意は、買い物支援の時買い慌てるのが嫌なので、仕込みをしたり計画をたてて焦らずに動きました。

チケットの発券が1週間前だったので、席がどこか不安で、真ん中の通路が20列目で、私たちは12列23と24でした。座席は真ん中だったので、杖と前のイスにつかまりながらの横移動でした。
オーケストラとの共演で、途中20分トイレ休憩時間がありますが、たくさんの人がいての移動は大変だし、トイレまで行ったり来たりも大変だとおもったから、開場してからスタッフに誘導されてトイレもすませておきました。

最後の2曲、周りにあわせて私も立ちました。やはり左足がしんどくて座りたくなったけど、そこはがまんして、頑張りました。終演後は、規制退場でスタッフの人から、周りの人がいなくなってから、車イス♿のある通路までゆっくり歩いて下さいと言ってくれていたので、だいぶくたくたでしたが無事車イス♿まで行けました。

友達の車で家に戻り、作っておいた酢豚を温めて、春雨サラダ、玉子スープを食べて貰いました。食後は、イチゴをのせたパンケーキ。私は、食欲がないのであとかたずけをしたりして、友達と1時間くらい玉置さんの話をして友達は、次の日仕事だからと帰って行きました。

この日のために、リハビリや日々の生活を頑張りました。周りの人が助けてくれたので、動きが悪い中でも何とか大切な1日が無事過ごせました。
次の予定がなくなってしまい、さみしい限りですがまたいつか目標ができれば、そのためにリハビリを頑張っていきたいと思いました。

3月13日東京芸術劇場

この日は、私の誕生日。是非とも参加したいと日程発表して即色々考えました。場所は、池袋で東京に住んでいた時30年前、買い物したりしたことがありました。病気して、入院中国際フォーラムに車いすで行ったので東京は6年ぶり。
今回玉置さんでは初めてのデジタルチケットで、会場の座席表を見ると車いす席は2列目の両端にあったので、イベンターに連絡して誕生日に玉置さんなんて最高の誕生日プレゼント❗と大喜びしていました。
朝いちで訪問リハビリの日だったのでお願いして、楽しんで来てね。と周りの人も言ってくれて、タクシー呼んで駅まで行き、障害者手帳を見せて半額の子ども料金の切符を買い、係員の人が車いす車両に乗るスロープ出してもらい、電車に乗って池袋に行き、池袋でまたスロープでおり、まずは多目的トイレに向かい、係員さんにお礼を言って友達と待ち合わせの改札で合流しました。
兄も後から来てくれて、車イスを押してもらい東京芸術劇場に向かいました。開場して係員が席まで案内してくれたのが、私の座席表で見ていたところではなく、一階の後ろ
S席で今日誕生日だから近くで玉置さん見れると思っていたんです❗と話したけれど、2列目の席は車イス仕様にするには取り外ししないとで、満員なのでこちらでお願いしますと変更になってしまいました
会場は、1999人収容で東京ということもあり、有名人の人も観覧席にいます。女優の萬田久子さんの姿を見ました。オーラがあってさすがです。終演後は、友達と記念写真撮って、どこかで食事しょうと探しましたが、車イスの私が行ける所がなかなか見つからず、結局一泊するためにとっていたアパホテルの一階にラーメン店が入っていて、テレビで先週放送されたらしく、店内は混んでいて待ち友達と一緒にラーメンを食べました。
友達は帰らないといけないので、帰って私は13階のバリアフリールームを兄と一緒に泊まりました。
ホテルは、シャワールームにシャワーチェアがないとあったので、湯船をまたげないからと濡れてもいい背もたれつきのイスを用意してもらえるように伝えておいたので、シャワーを使うことが出来ました。トイレの前の移動が狭い。ベッドがふかふかすぎて、家では介護ベッドにサイドの手すり使っているので、ちょっとつかいずらく感じました。
前回のパレスホテルもですが、バリアフリールームに手すりが付いていればいいでしょ❗みたいな感じで、個人差はありますが、もう少し安心できるバリアフリー目線だったらと使ってみて感じました

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