今回娘が子供たちの教育の為にヒロシマへ行きたいと言うので、計画を立て始めました。
広島の宮島・厳島神社、原爆ドーム、平和記念公園を見て回るのにやはり2日は必要のようです。
乗り物の時間やホテルの位置など前もって計算しておく必要があります。
多目的トイレの位置も重要です。今回ホテルは2ヶ所、バリアフリールームにします。
【5ヶ月半前】
2024.1.26 LAー羽田の航空券購入の知らせを受け、旅行計画スタート。
1.27 まず熊本に飛び、帰りに新幹線で広島に寄る旅にすることにしました。
羽田ー熊本の航空券を車椅子対応込みで6人予約完了
2.1 宿泊は熊本駅に隣接したホテル(ザ・ブロッサムホテル)と、広島へ原爆ドームと平和記念公園が見渡せるホテル(リーガロイヤルホテル広島)の予約をしました。
どちらもバリアフリールームが取れ、娘達家族は子供が大きくなったのでツインルーム2部屋に。
2.14 広島での時間は、広島に到着した日と翌日東京に帰る前の時間になります。ゆったり回る為に、熊本から早い時間に新幹線にのり、午前中に宮島に迎えるようにし、翌日原爆ドームと平和記念公園を散策します。アナゴ飯、広島焼、生ガキ、もみじ饅頭を抑えたいと思います。
【2週間前】
6.28 夫がコロナに罹ってしまい最初の予定7/5~9は、軽いとはいえ無理と言うことになり、一週間後ろへずらすために、飛行機、新幹線、ホテル、レンタカー、友人や親戚との約束をすべて変更するのに大変な作業でした。私自身も検査薬で調べたところ陽性になっていましたが、ほとんど症状はありませんでした。ということで、実際の旅行は7/12~7/16になりました。
【宮島】
広島電鉄:原爆ドーム前電停―(50分)⇒広電宮島口駅-(徒歩1分)⇒宮島松大汽船フェリー乗り場
宮島口⇒宮島行き 7:15~20:35運行 9:00~18:00(10分間隔6本)
往復400円(障害者手帳提示で200円、介助者は300円)
1Fに車椅子8台優先席あり、バリアフリー対応トイレあり
大鳥居と厳島神社を海から見て、神社へ向かう
広島駅から宮島へはJR27分と広電75分がありますが、広島駅に荷物を置き、JRで往復し、タクシーでホテルへ向かった方が効率的を判断しました。
ホテルから原爆ドームと平和記念公園は徒歩で行けるので車椅子でも問題ない。
前回は長時間の移動に際し、自宅を出る時点でナイトバルーンを使用したので、空港のセキュリティーチェックで「そのバックもお願いします」と採尿バッグを指さされる状況になった反省を生かし、飛行機を降りてから使用することにしました。
日程を変更したことで三連休に重なりレンタカーの機種がセレナに変わり車椅子が乗せれるか心配でしたので、お土産や着替えは先に実家に送りました。
レンタカーの乗り降りや自宅のトイレに入れない為に、スーパーの多目的トイレ利用の為の乗り降り等一日数回婿に抱きかかえてもらって移乗しました。
車で15分の所にある温泉に娘家族と行きました。もちろん私は入れないので、お土産を買って待っていました。
なんと幸せな婿と孫が靴を履かせてくれていたので、嬉しくなって写真を撮りました。
実家に二泊し熊本駅隣接の新しいホテルへ入りました。
星がいくつなのかは分かりませんが、広島の5つ星より豪華でした。市電で友人の経営するショップへ行く予定でしたが、あいにくの雨。25年ぶりの友人3人がホテルへ来てくれて楽しい時間が持てました。
夜も親戚の家族と総勢15人で夕食を一緒にしました。
翌日9時半の新幹線で広島へ向かいました。
バルーンを外したので新幹線のトイレを利用しました。
広島へ着くとコインロッカーが3ヶ所とも空きが無く、予定を変更しホテルに荷物を預け、原爆ドームと平和公園と資料館へいくことにしました。
ドームの写真を撮り、娘が近くの地図を見ていると、ボランティアのガイドさんが私に声をかけてくれました。
250人程いらっしゃるようですが、その方はお父様が被爆されたとのこと。
記念公園に向かう道の横に大きな川がありますが、私は聞いたことのある被爆した人たちがのどの渇きとやけどの為に川に入って行って折り重なるように亡くなったという情景が目に浮かび、胸の詰まる思いをしました。
2歳で被爆し、12歳の時白血病で亡くなった禎子さんの像や、名前の分からない人達のお骨を集めたお墓や、たまたま資料を取りに地下室に行っていて一人生き残った男性の手記が書いてある地下室等々、涙があふれて泊まりませんでした。
資料館には日本人より外国人の方が多く、皆静かに資料を見て回っていました。ホテルを出た時はパラパラと落ちていた雨もすっかり上がり、青空が見えてきたので、ラッキーでした。
翌朝はゆっくりして10:30にホテルを出てタクシーで駅に向かい、ロッカーに荷物を置いて宮島行きのJRに乗りました。傘は4本しかなかったので私は半年前に買った車椅子用の合羽を初めて使いました。
宮島口からフェリーに乗り宮島に到着した時も小雨でしたが、途中から雨もやみ、子供たちは面白い写真を撮るのに夢中のようでした。
穴子飯を食べるつもりでしましたが、広島焼を宮島ビールと一緒に頂きました。
厳島神社を参拝し、商店街の中心にある休憩所は多目的トイレの利用や待ち合わせに、大変役立ちました。
娘は焼きガキをほおばり、子供たちはレモンソースのかかったソフトクリームや焼きもみじ饅頭が気に入ったようです。射的をしたり、お土産を買ったりすっかり観光を楽しみました。帰り道でお仲間が教えて下さったお菓子がありましたが、もう荷物がいっぱいで買いませんでした。
帰りの新幹線に乗る為にそれぞれが食べたいものと飲み物を買い新幹線に乗り込みました。
私と夫は鯖寿司と穴子寿司とビールを買い、車椅子から移乗できるシートでくつろぎました。途中新大阪を過ぎると、JR山陽からJR東海に変わるので、お世話係の人が挨拶に来てくれました。GRコードを読み取ると呼び出しができるようになっているそうです。
多目的室を利用してみようと思いましたが、今回は止めておきました。
お見送りもスロープを用意して下さり、行き届いたサービスに感謝でした。
【佐々木禎子さんと原爆の子の像】~中国新聞・ヒロシマ平和メディアセンターより~
「生きたい」と言う願いを込めて
佐々木禎子さんは2歳の時、爆心地から約1・6キロの楠木町(広島市西区)の自宅で被爆し、黒い雨に打たれました。爆風で飛ばされましたが、外傷もなく、元気に成長しました。スポーツが得意で、将来の夢は中学の体育の先生。
しかし、小学6年で病に伏し、中学へ通うことはできませんでした。白血病の診断を受け、広島赤十字病院への入院を余儀なくされたのです。入院中、お見舞いとして名古屋から千羽鶴が贈られたのをきっかけに、「生きたい」という願いを込め、折り鶴を折り始めました。その願いもむなしく、体調は次第に悪化。8カ月間の入院生活の末、1955年10月25日、亜急性骨髄性白血病のため亡くなりました。「644羽で力尽きた」などと伝えられましたが、原爆資料館は家族の証言から1300羽以上を折ったとみています。
同級生たちが呼びかけ「原爆の子の像」建立
禎子さんが亡くなって3年後の1958年5月5日、平和記念公園に「原爆の子の像」が除幕されました。建立を呼び掛けたのは、禎子さんが通っていた幟町小6年竹組の同級生たちでした。禎子さんをはじめ、原爆の犠牲になった子どもたちの死を悼む像を造ろうと話を持ち掛けられた子どもたちは、ちょうど開かれていた全国中学校校長会で手作りのビラを配って賛同を求めたのです。
やがて全国からたくさんの募金が送られてきました。広島市内の各学校の生徒会つくる「広島平和をきずく児童・生徒の会」が結成され、団結の会のメンバーも加わって募金活動が進められました。
年間一千羽の祈り
原爆の子の像が建立された後、佐々木禎子さんと折り鶴の実話は世界に広まりました。そのきっかけは、禎子さんが亡くなって1年後の1956年、オーストリアのジャーナリストロベルト・ユンクが広島を訪れ、禎子さんの話を聞いたことでした。ユンクは創作を交えて禎子さんを描き、「廃墟の光」として世界に発表しました。その後、海外の文学者たちによってさまざまに作品化され、広く世界に伝わりました。原爆の子の像には世界中から年間約1千万羽もの折り鶴が寄せられます。広島市が集計を始めた2002年度から、像に届いた鶴の数は2億羽を超えました。