脊髄損傷者

初めての便失禁

1月4日20日目、朝方4時から起きてスマホで「脊髄損傷者協会」という所の排泄コントロールの検索をした。30年20年と障害を負った後、排泄の苦労を乗り越えた人達の体験談もあり、気持ちを強く持ちくじけない心が大事だと感じた。

今飲んでいる朝食前の便を柔らかくする薬を利用して、2日か3日に1回自分でトイレで坐薬か浣腸を使う方法が、私には楽なように思うが、病院で指導してもらえるだろう。

尿の方が少々厄介なことになる。便意同様、尿意も感じないとなると、今のようにカテーテルを入れて採尿バッグを提げている状態のままという訳にもいかない。ここは病院だし、多くの人が同じように採尿バッグの尿の量や色が分かる状態を普通のこととして受け止めているが、外ではそうはいかない。まあ、何とか方法は見つかるだろう。

旅行にも今まで通り行きたいが、ツアーだと時間に縛られるから、これからはのんびり自由な旅にしよう。そもそも車椅子でツアーなんて行けるわけないか。

リハビリの時少し臭ったので昼食後見てもらったが、汚れていなかった。
少し過敏になっているのかもしれない。

夫に電話すると、いくぶん声に張りはあったが、何も食べていないと言う。
何も食べないからふらつくのよ!と叱った。娘の為の布団のことを聞くので伝えた。

年が明けたので、今日は何か転院の動きがあるのかと思ったが、何もなかった。ケースワーカーは若い女性なのだが、連絡がないならないと言ってくれればいいのに、弟が電話をしたら、午前中で帰ったと言われて、驚いた。まあ、人を責めても仕方がない。
週明けまで待つことにしよう。

娘は今、LAだと連絡をくれた。夕方到着して家には夜になるだろう。

ここに入院している人は70代か80代がほとんどで、60代は私を入れて3人とのこと。
80代のおじいちゃんやおばあちゃんを見ていると、半分寝ているようだったり、反応の弱い人が多く、回復していくのだろうかと可哀そうに思う。私は脳でなくて良かった。

お昼を食べる前から子宮の辺りというか下腹部がキリキリと痛み、食事も早々に切り上げ横になっていた。湿布をしてもらい痛みがおさまったら、カテーテルの交換をしてもらうことにしていた。

リハビリのお迎えが来る迄、少し眠ったようだった。少し臭う気がしたが、昨日のリハビリ室での感じも違っていたので、どうなんだろうと確信が持てないまま車椅子に移ろうとしたら、シーツが汚れていた。見てもらうためにベッドに戻ったが、車椅子迄、少し汚してしまった。

気にしないように明るく対処してくれたが、つい悲しくなって涙が出た。
便失禁は初めてだったのでショックだった。
でも泣いていても始まらない。自分で兆しを察知して処理できるようにしなければ・・

娘から家に着いたとビデオ電話をもらった。夫の顔も見れたが、笑顔で声も明るかった。娘のおかげだ。良かった。

お金の計算

リハビリはベッド上での横移動や車椅子への移乗を練習し、できるようになったので、少し自信がついて、一段階上がったように思う。

お昼過ぎ、転院先の受け入れOKとの連絡が来た。2、3日内には転院できそうだ。

娘に私のパソコンを操作してもらって、投資信託を1本換金した。しばらくはこれで大丈夫だと思う。

転院先から明日はどうかと打診があったが、差額ベット代が13,000だという。ネットで見た人は8ヶ月入院したと書いてあったので、計算してみるとあまりにも額が大きいので、難しいと答えると、長くそこにいるのではなく、リハビリ病院に移るというが。

ここの病院が12月1月で15万、移動に20万、1ヶ月差額ベッドを使うとして40万と計算をする。今まで貯めたお金は、毎年娘家族と6人で海外旅行をすれば、10年は楽しめると思っていたのに、歩くこともできなければ温泉にも入れないし、エコノミークラスでフライトすることもできない。ついビジネスクラスでの旅行となると、回数が減ってしまうなぁと寂しくなる。これからの人生の楽しみが全く様変わりしてしまう事になる。

仕方がないと思いつつも、なんでまたこんな病気になってしまったのかと残念に思ってしまう。前向きではあるが、気持ちを切り替えるのは簡単ではない。

今日は外に10分位出た。空気が澄んで気持ちよかった。さざんかの花を一輪折ってくれた。絵に描きたいと思って、鉛筆で描いてみた。

できなくなってしまったこと

あっという間に七草迄来てしまった。どちらにせよ今週転院することになればベッドからの景色も見納め。看護師さんに窓を開けて写真を撮ってもらった。この窓から見る朝焼けと夕焼けは、いつも素敵だったなぁと思う。

お昼過ぎに転院先の病院から電話で明日14時着で受け入れ可能とのこと。差額ベット代は5,500円だというので、お願いすることにした。早速都内の介護タクシーの予約と弟に連絡をしてもらう。

夫と娘にも伝えたら、ちょっとした勘違いで、娘が今から向かうと連絡してきた。すぐだったので、そちらで待つように伝え、間に合った。明日二人に会えるのが楽しみだ。

ビデオ電話で娘がプラスチックのコップの場所を聞くので伝えると、椅子を持ってきて探してくれた。その様子を見て、「あぁ、もうそんなこともできなくなったんだね」とつい口に出てしまった。「そんなこと考えちゃだめだよ!」と娘に叱られ、そうだなと思った。

リハビリではズボンを履いたり脱いだりの練習をした。自分の力で立つこと、一歩前へ足を出すことは、かなりきつい行為になるが、一歩一歩少しずつでも前進している。
ここでお世話になった人たちの一人一人に「ありがとう」と感謝する。

年末年始お風呂がお休みで、久しぶりに入れてもらった。とても温まり気持ち良かった。いつもの二人が洗ってくれて、いつかお礼の手紙が書けるよう頑張ると約束した。
看護師さんを含む30人位の人が私を助けてくれた。ありがたいと思う。

助けてくれた沢山の人達

いよいよ転院の日が来た。夜中12時から全然眠れなかった。夜中2回看護師さんたちと
「飯田を離れるから嬉しいんでしょ?」「ううん、寂しいからよ!」と笑い合う。
良い人たちに恵まれた。

別れの時間になると、続々と部屋に集まってきてくれた7、8人の看護師さんたちの温かい励ましの言葉に胸が熱くなりながら、握手を交わし諦めないことを誓った。エレベーター前で扉が閉まり顔が見えなくなるまで両手を振って見送ってくれた。

にぎやかに送り出され、みんなに愛されて良かったと思った。玄関には看護部長さんとケースワーカーさんが雨の中ストレッチャーが濡れないようにさしてくれて、見えなくなるまで手を振って見送ってくれた。

思わぬ失態をして、恥ずかしさとショックで人前で涙を流した時も、温かい言葉をかけてくれて、ありがたく思った。事故のように降りかかった病気だが、こんなに愛してもらって、心が熱くなるような人たちに恵まれたことを、とても嬉しく思う。

思えば、家族、友人だけでなく、日々の生活や環境の中の人々に、ずっと昔から恵まれてきた。人との出会いは日々を楽しくするための宝のようなものだ。

人の一生に関わるのは200人位のものだという。一人一人の顔を思い出し、出会えたこと、学んだことを心に留めていたいと思う。

ここ飯田は私の思い出深い土地になった。病院の外は観光していないが、またいつか訪れる時どんな姿で来れるのだろうと車の窓から遠ざかる病院を見ていた。

下手な絵だけど、あの日の情景がありありと目に浮かぶ。

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