脊髄梗塞と分かるまで

脊髄梗塞になって最初に考えたこと

帰って行った夫が、母に伝えてくれたらしく、気づかなかったが22時に母から留守電が入っていた。前の日に温泉からかけた時のような声を出す自信がない。しばらく時間を置くことにしよう。弟たちから心配しないように伝えてもらうことにする。

夜中に薬を頼んだ看護師さんが、「私も4回大手術をしたの、今こうやって仕事できてるけど、良く泣いたよ。周りに当たり散らしたしね。ため込まない方が良いよ!」と言ってくれた。今までの不安が突然ゆるんだように、ポロポロッと涙がこぼれた。

それまで、海外に居る時じゃなくて良かった。
パパが一緒の時で良かった。
脳や脊椎の異常じゃなくて良かった。(この頃は、まだ病名さえ知らなかった)
考えることができて、口が利けて、手が動かせて良かった。
しっかりとした病院で良かった。と良かったことだけを考えていた。

一度涙が出ると、娘のメールにも涙が止まらなくなった。
でも、おとうさんはもっと辛かったはず。16年前に亡くなった父が病院に行った時、余命3ヶ月と告げられたことを思い出した。
余命を告げられた訳でもなく、治らないと言われた訳でもない、泣いて良くなる訳じゃないのだから、前を向こう。現実と闘おう、と心に決めた。

今日はお風呂の日だというが、検査の為に中止となった。
MRIは1時間以上かかった。検査後、先生が「脊髄梗塞(セキズイコウソク)ではないかと思うので、ステロイドを処方します」と言う。それから1日中の点滴が始まり、時々注射液が入った。

もしかしたら膠原病かもしれないので検査をするという。背中の腰の部分に髄液を抜くための注射針が入ったが、痛くはなかった。

夜中までお腹の痛みは続いた。どんどん位置が上がってきている気がする。
この日もまた、我慢の限界で薬をもらうが、眠ることはできなかった。

車椅子でもいいから生きて!

翌朝7:20、気分が良いように思えたので母に電話した。昨日大宮に住む上の弟と電話で話した時は、涙腺が緩んでしまったが、母には元気な声で話せた。
「あなたは私の宝だから、車椅子でもいいから生きて!!」と言われ、胸がつまった。

食欲も出てきて、食べられるようになった。人間はどんな時も、食べて元気を取り戻す。
尿はありがたいことに、当日から管を入れてくれて問題ない。いい時代だ。
便通もないが、4日目なので今日中に何とかしたいねと、看護師さんが言ってくれた。
感覚がないので、恥ずかしいことなのに、どうなるんだろうと思う。

車椅子生活のこと、歩けなかった時のこと、みんなのこと、考えてみるが
「きっとよくなると信じよう!」と振り切る。

午前と午後ベッドまでリハビリに来てくれた。リハビリには15人いるらしく、私には5、6人が関わってくれるという。少しずつ少しずつ戻りそうな嬉しい気がして、この頃はホントにそう信じていた。薬の担当、ケースワーカー、昼と夜の看護師さん、私の為に20人近く関わってくれることになる。

初めて経験する事ばかりで、いろんな人が次から次に来るので自然と笑顔で対応する。数年前から保険はやめてしまったが、お金のことは何とかなると、心配はしない。

いったん東京に帰った夫が、私が頼んだものを抱えてやってきた。計算していた時間になっても来ないので気をもんでいたが、手続きを終えてから病室にきたと言う。
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5:15に病室に来て、15:45にはタクシーを呼んでいるからと帰って行った。

そっけないし、クールな気はするが「迷惑かけてごめんね」と言うと「好きでなった訳じゃないから」という。次に来るのは9日後、なんと長い。往復12時間はきついよね。
仕事もあるし、あまり眠れてないような顔をしているのが気になった。

その後、心配は的中したが、この頃はその後の一年がどのように変化するかを考えるより、泊まっていけばいいのに、と少し寂しく思ったものだった。

眠れない夜

どうなっているのか、昼間も眠気が来ない。神経が立っているのか眠れぬ夜は三日目も続いた。夜は眠るようにと言われても、目も頭も冴えているので、スマホで時間をやり過ごす。時々見ていた英会話の動画で、今の私にピッタリのフレーズを覚えた。

It is what it is,and I will try to compete as best as I can.
くよくよしてもしょうがない。自分なりに努力するしかない。状況は状況なのだから。
泣いても笑っても、状況は変わらないのだから、頑張るしかないでしょ!
と自分に言い聞かせていた。

できなかった寝返りはできるようになった。リハビリのおかげで自信がついたようだ。
こんな時にだけど、髪のことが気になってきた。このままの状態だとカラーリングもできない。とうとうシルバーグレイにする時が来たのかもしれないと考える。

最初運ばれた時は広い6人部屋に3人だったが、昨日一人退院して、入れ替わりに二人。他の人は脳梗塞で、誰もが突然のことでビックリしていると思うけれど、意外と早く退院していくように思った。お隣の人は10日間集中治療室にいて、その後一日4回のリハビリをして、1ヶ月後の今、ほぼ歩いて行動できるようになったと喜んでらっしゃる。

担当医の回診で、「少なくて珍しい症例だけど、歩けるようになった人もいるっていうから、リハビリが大事、頑張ろう!」と言ってもらった。
足裏を触って現れる動作がないので、感覚は戻ってくるだろうと嬉しい話。

母から心配していると電話をもらう。「どう?歩けるようになった?」と言う。
う~ん、私の少ない知識でも、そう簡単ではなさそうだけど、心配してもらっても、どうしようもないので「大丈夫。」と伝える。

娘からはビデオ電話が来て、孫達や婿とも話す。娘が「行こうか?」と言ってくれるが、子供達や婿を置いてアメリカから見舞いに来てもらっても、今は何もすることがない。「迷惑よ」と笑顔で答える。顔を見て話せるだけでありがたい。

夫からも「メールがないけど元気?」とメールが来た。
心配してくれてるんだぁ、と嬉しくなった。状況を知らせ、次に持ってきてもらうものをバンバン書いた。幼稚園の時から60年入院なんてしたことない。時間を持て余す。
この頃は、あまり痺れもひどくなく、痛みも強くなかったのだろう。のんきなものだ。

車椅子に乗ってリハビリ室へ移動。自分の部屋が405だということを初めて知った。
履いてきたスニーカーは麻痺している足では履きにくい。リハビリシューズを借りた。3Fのリハビリ室では、車椅子で部屋を回りスムーズに段があっても大丈夫か試す。
チューブやステッキを使って上半身の運動をした。

4Fで車椅子のまま、45分待って次のリハビリを受けたが、足を下にしているせいで、とても冷たくなる感覚が強くなって、すぐに椅子を持ってきてもらって上げた。
2回目のリハビリは足の力の確認。立てるようにしたいと切実に思った。

便秘で5日目になったので、看護師さんたちの努力で何とか出してもらった。自分で自覚がないのが悲しい。恥ずかしいことをしてもらっているが、割り切る事にする。

上の弟から電話で「パーキンソン病ではないか、それなら治るから」と励まされる。
心配して色々調べてくれているのが、嬉しかった。

夜、点滴針の差し替えに二人がかり。数か所の失敗で青あざだらけになった。
何とか左手の甲でおさまった。フー

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