脊髄梗塞と確定した日

治る病気でありますように

娘は明日帰るので、17日の手術(カテーテル検査)には立ち会えないが、麻酔科の先生の説明を受けてくれた。結果が気になるだろうが私もラッキーな結果を期待している。

ソーシャルワーカーの女性が来て、治療がもし期限の2ヶ月を超えて必要になると、最大5ヶ月入れるリハビリ病院はキャンセルしなければならなくなるという。どちらにしろ幸運を祈るしかない。カテーテル検査で手術ができるようなら、この状況が改善する訳で、それに越したことはないのだから。

弟は自宅とは反対になるのに、大井町の会社から帰りにちょくちょく寄ってくれる。
17日の手術当日は、付き添いが必要になるので、仕事を休んでくれるという。娘も安心している。弟の話ではネットで調べてくれて、H先生は脊髄のエキスパートだそうだ。

お隣のおばあちゃんは手術の後、別の病棟へ移ったようだ。ここは四人部屋で脳神経内科なので、脳梗塞とか脳に障害を受けた人の部屋になる、私のように頭がはっきりしていると、気になることが多い。斜め前の人は起きている時はいつもブツブツと独り言を言っている。今朝は「お水下さい」と連呼し壁を叩くので私がナースコールをした。

のどが渇くようだが、普通のお水ではダメらしくとろみをつけて少しずつあげている。
ご主人が毎日来ているが、私の所にやってきて「すみません。」と申し訳なさそうに、頭を指さして「こっちをやられているもので」というようなしぐさで恐縮している。

前のベットの人は、一晩中何かヒソヒソ話をしている。布団をかぶって、電話でもしているのかと思っていたら、それも病気らしい。なんだか切なくなってきた。

明日の検査に備え4日目だったこともあり坐薬を入れてもらうが、力むことが難しく、なかなか思うようには行かない。午後のリハビリがキャンセルになったので、午前中にスッキリ出ればと願う。

娘が来てからH先生の手術前説明があった。自信ありそうに見えるものの、危険な事にも触れなければならないので、脅かしながらの説明に、ひょうひょうとした面白い先生だと思った。明日は手術扱いで枠を押さえているが検査だという。疑念のある硬膜動静脈ろうが見つかれば、手術ができるらしく改めて今後については説明を受けることになる。娘は明日帰るので、17日の手術(カテーテル検査)には立ち会えないが、麻酔科の先生の説明を受けてくれた。結果が気になるだろうが私もラッキーな結果を期待している。

カテーテル検査当日

1月17日33日目:6:00に薬を飲んで、歯磨きをし、持ってきてもらった熱いタオルで顏を拭く、15:00まで何の予定もないので、手あたり次第暇つぶしをするしかない。
今日の検査が、この病気と今後どう向き合うのかの山場になるだろう。

15:00と伝えてあったのに弟は9:30に来てくれて、10:30に来た娘と食事に行ってもらった。娘はフライトの時間に余裕を見て少し早めに帰って行った。パパの所にも顔を出してきたと言っていたので、バタバタした気分だっただろう。娘の存在がありがたい。

予定より早くなって1:30に入室、全身麻酔で2時間以上眠っていたのに、15分程のような気がした。手術室には10人以上の人が居た。目が覚めてすぐ「見つかりましたか?」と聞いたが、特別治療はしないようなので、少しがっかりした。

弟に説明をして欲しいと頼むと、画像を見ながら話してくれた。
弟から娘と夫と実家に連絡してもらった。

病名決定

カテーテル検査の結果、硬膜動静脈瘻の疑いは消え、脊髄梗塞が正式な病名となった。
場所もおへその上の10・11脊椎辺りの血管につまりがあるとのこと。年齢的に以前から進行していたものが何かのきっかけで詰まってしまったのだろうとしか言いようがなく、治療としては脳梗塞と同様になるらしい。

脳梗塞の人も病院で治療するのは2週間~1ヶ月で、そのあとはリハビリ病院に移るか自宅へ戻るという。先生が「全神経が死んでるわけではないので、生きている所や他の所から改善がみられるようになる可能性は低くない」とおっしゃる通り、私もリハビリを頑張るしかない。

副担当のネガちゃん(気の毒そうな顔をして、前向きな言葉は何も言ってくれないので勝手につけたニックネーム)が来てくれたので、排泄の事が気になるというと、泌尿器科で一度診断してもらった方が良いですねということで、担当医に伝えて週明けの9時にバルーンを抜いて診断してもらうことになった。

8:30 カテーテル検査の時に股関節の所から針を刺したので、その時のテープをH先生が外しに来てくれて、他の装置も外せることになり、生き返った気分だった。
寝るときに身動きが制限されるというのも辛いものがある。

脳に障害があり、一日中何やら口走ったり、ガタガタとベットを揺らしている人のご主人が、今日も手を合わせて謝るしぐさをする。人のよさそうなおじさんが、逆に切なくさせる。私が同じようだったなら、夫はもっとまいっていただろうと思う。

サンディエゴに到着した娘と、ニューヨークの従妹とビデオ電話でおしゃべりをした。
顔を見て話せる二人は、私の心の支えとしか言いようがない。

深刻さから目を反らす

昨夜もらった眠剤と下剤のうち下剤だけ飲んで20:30に寝た。一日中ベットの上で過ごしていると、時間の感覚が鈍くなる。この病気になったことで、神経が立って眠れない日が続いたせいか、眠れるときに寝るということに考えを改めざるを得なくなった。

夜中目が覚めてラジオをつけると、小椋佳の曲が流れてきた。次から次に流れる曲を懐かしく聴いていると8曲位で最後の曲になり4時を告げた。もう一度眠ったら、6時にスピーカーから流れる曲に気づかないうちに照明がついた。

空の美しいピンクとブルーのグラデーションを見ていると、従妹から私との水着の写真と弟たちと4人で撮った写真がラインで届いた。わずか半年前の写真だった。

3月に亡くなった叔母の遺品整理に帰ってきていた従妹を誘って、実家の天草へ行った時のこと、久しぶりに水着を着て白い砂浜を踏み、海に入ってゆらゆらと揺れながら、二人で話をしたことを思い出す。ふと今まで一生懸命に生きてきて良かったと思った。

25歳の看護師さんで、とても話しやすい子が3月で辞めるという。21歳の時、まだ国家試験前の3年生の頃、街コンに行って29歳の男性と出会ったという。「1回で見つかって良かった!」という彼女に「いい人は早く見つかるのよ」と伝えた。
良い人なのに縁がないという人は、出会いのチャンスを見逃している、または作っていないのが原因ともいえる。

昨夜下剤を飲んだ20:30から約17時間半後の14時過ぎ、下腹部の激痛と脂汗に加えて、ギュルギュルした感があり、腹痛が収まりかけた頃、看護師さんに来てもらった。
防水シートにも付着する位、水分の多いもので、前回の経験でスウェットパンツを履いていなかったので良かった。

娘が言っていたが、便の色は洗っても落ちないので、捨てるしかない。毎回捨てていては、買いに行くのも、経済的にも大変なので、この方法で排便するしかなければ、時間を見て対応するほかに、オムツだけで布団をかけておくのが良いと思う。

長野でも一度読んだが、脊髄損傷者の排泄についてを17ページにわたり再度読んだ。
自分の身体のリズムを知って対応しなければと思う。

弟夫婦と母と一緒にビデオ電話で話した。もう母は泣いても仕方ないと思ってくれたようだ。甥っ子が来週、夫と私の見舞いに来てくれるという。マンションを中央に南と北に分かれて入院しているのだから、見舞う方も大変だ。

5歳年上の元同僚Fさんが訪ねてきてくれた。事前に電話で何か必要なものを持っていくが、遠慮なく言って欲しいというので、じゃあTシャツをと頼んだ。Tシャツとお見舞いを持ってきてくれて、1時間程おしゃべりができて、とても楽しかった。

私が病気になる前、64歳で退職した時、私は70歳で辞めると言った彼女と、他支社に移った5歳年下のHさんとの3人で『かしまし娘』というグループラインを作って、良くおしゃべりをする仲なので、気持ちが通じるというか、病気を感じなくさせてくれる。

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